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「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて 四国なるらむ」
古歌にこのように詠われた知多半島は、陸続きでやや細長いが、四国の地形に類似し、気候温暖で古代万葉のころから訪れる人々が多く、信仰心の篤い所である。
弘仁5(814)年、弘法大師が諸国行脚の途中、三河から舟路で知多半島を南下、南知多町大井聖崎に御上陸され、同地医王寺と同町山海岩屋寺に御留錫、護摩修法された後、野間を経由し、陸路北上されて伊勢路に向かわれたという。
知多四国八十八ケ所霊場は、弘法大師の夢のお告げにより、知多市古見妙楽寺第13世亮山阿闍梨等によって、204年前に開創された。
文化6(1809)年3月17日、「知多は我が宿縁深い地、時機は熟した。ここに霊場を開いて有縁の衆生を済度せよ。二人の道僧をさし遣わす。」との夢告を受けた亮山上人は、翌日ただちに四国霊場に出発、徒歩で巡ること3回、その間に岡戸半蔵行者・武田安兵衛行者という
2人の同志を得た。阿久比町福住出身の半蔵は、一時に妻子を失い、発心して行者となり、諸国巡拝の旅を遂げて美浜町古布の地蔵堂に止住していたが、亮山上人の発願に共鳴し、私財を投げうって尽力する決意を固めた。また、讃岐国香川郡出身の安兵衛は、心願あっての諸国巡拝の途中に当地を訪れ、地形が生国に似ており、霊場に極めてふさわしいことに感激し、四国霊場の御土砂を奉持し来って、亮山上人への協力を誓った。
亮山上人は行者2人と共に知多半島を巡り、誓海寺慧等師、宝乗院広修師・覚慧師、持宝院唵光師をはじめ多くの寺院の協力と、万屋喜助、古布庄屋嘉右衛門等、多数の村人の援助によって、各札所に御土砂を納めて大師尊像を奉安し、文政7(1824)年3月、この大業を成し終えた。実に16年の歳月を要している。
当霊場では、この3人を知多四国霊場の三開山と崇め、それぞれの故地である古見妙楽寺に亮山阿闍梨、古布誓海寺に半蔵行者、布土葦航寺に安兵衛行者の開山所として、その遺徳を讃えている。
大井聖崎には、宝暦のころまで御上陸の第一歩を印されたと思われる僧形の大石が立ち、村人たちが礼拝を続けていたが、波に削られいつしか海中に没した。しかし、昭和59(1984)年、弘法大師1150年御遠忌を迎え、霊場会をはじめ地元信者・巡拝者各位の御協力によって、岬の小島に大師の石像が建立され、毎年
4月18日に「上陸大師奉賛会」による法要が厳修されている。
知多半島には、聖崎や岩屋をはじめ、砂聖・仏山・求聞持山・明星水・弘法井等々、大師ゆかりの霊跡が数多く残されている。また、当霊場が真言宗のみならず、曹洞宗、西山浄土宗、天台宗、浄土宗、臨済宗、時宗、尾張高野山宗の各宗寺院で成立しているのは、弘法大師とのご縁深き聖地であるがゆえである。
大師の御跡を慕いつつ、知多四国霊場・御霊跡をご参拝頂きたい。
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